Queen(クイーン)

1973年から活動しているロックバンド。オペラ風なコーラスは必聴!

フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury)


フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury)

<経歴>
当時イギリス領だった、タンザニアのザンジバル島のストーン・タウンに、パールシー(10世紀頃、ゾロアスター教からイスラム教への改宗を拒否しインドに移ったペルシア系民族の末裔)の両親の間に生まれた。5歳の頃からピアノを習っていた。イギリス政府のために働く父の仕事上の理由でインドに移り住み、ボンベイ郊外の全寮制の高等学校に通い育った。いわゆる日本で言うところの帰国子女である。その頃から数々のロックバンドを経験し、ピアノとヴォーカルを担当。一旦ザンジバルに戻った後、1964年に起きた内乱が元で家族揃って渡英。イーリング・アートカレッジに進学し、グラフィック・デザインを学ぶ。 クイーンに参加の当初からしばらくは、同じくメンバーのロジャー・テイラーと、ケンジントン・マーケットで古着屋を経営。 クイーンのデビュー直前、ラリー・ルレックスという名義でソロシングルを発売している。

クイーンの日本での人気を決定付けることになった雑誌『ミュージック・ライフ』の人気投票では、1975年度の10位を皮切りに1976年度から3 年連続で1位に輝き、1980年度にはキーボード・プレイヤーとして1位に、1981年度にはヴォーカリストとして再び1位に返り咲いている。

また、1979年から、しばしばバスハウス(ゲイ男性のための発展場・バー・サウナ・ディスコを兼ねた複合施設)に足を運ぶようになる。

親日バンドとされるクイーンのメンバー中でも最も親日家で、来日公演時以外にも1986年秋にお忍びで来日して骨董品などを買い求めて行った。伊万里焼コレクターでもあった。新宿二丁目には生前行き着けのバーがあったという(出没!アド街ック天国2007年12月8日放送分より)。来日公演時のMCの半分は日本語だった。ロンドンの自宅には、日本庭園がある。アルバム『バルセロナ』の「La Japonaise」では歌詞の殆どは日本語だった。

80年代半ば、この頃からメディアにはHIVに感染しているのではないか、という憶測が頻繁に飛び交うようになったが、後述の永眠直前まで公式には否定し続けていた。頬にも髭を伸ばすようになったが、これは合併症のひとつであるカポジ肉腫を隠すためともいわれている(ただし、イニュエンドウを発表する頃には口髭まですべて剃っていた)。1990年から1991年には交流のあった人物がエイズにより他界。1991年11月23日、かねてより噂になっていたHIV感染を公表。翌24日、HIV感染合併症のひとつであるニューモシスチス肺炎(カリニ肺炎)により死去。45歳という若さだった。 このため、1987年4月にかれが敬愛していたオペラ歌手、モンセラート・カバリェと録音し、1992年にバルセロナオリンピックの開会式にて2人で歌うことになっていたバルセロナは、ホセ・カレーラスが代役を務めた。

死後、遺言によりクイーンでもっとも売れた曲「ボヘミアン・ラプソディ」の印税をエイズ基金「テレンス・ヒギンズ・トラスト」に寄付。それを受けて再発されたシングルCDはイギリス史上初の同一曲2度の1位を獲得した。

フレディの遺言により、遺体は遺族により火葬され散骨された。その場所は明らかにされていないが、一説によれば、彼の自宅の庭に埋められているともされている。

残されたクイーンのメンバーが中心となり1992年4月20日、イギリス、ロンドンのウェンブリー・スタジアムでフレディ・マーキュリー追悼コンサートがおこなわれた。

2006年10月21日には、ドキュメンタリー映画「フレディ・マーキュリー〜人生と歌を愛した男」が公開された。この映画はDVDとして発売されている。

FMA(Freddie Mercury Association)フレディ・マーキュリー基金というHIV感染症に関する治療費の寄付を募る団体が存在したが、2008年12月末日にて活動を休止した。


<ミュージシャンとしてのフレディ >
初期の自筆のバイオグラフィによれば、ジミ・ヘンドリックス、ビートルズおよびジョン・レノン、ロバート・プラント、ライザ・ミネリなどの名前を、好きなアーティスト、影響を受けたアーティストに挙げており、またクラシックの作曲家(パガニーニ、チャイコフスキー、ラフマニノフ、オペラ曲)などの名前を挙げることもあった。 クイーンでの担当楽器としてはピアノで、いくつかの例外を除きライヴでもプレイした。 クイーンのライヴにおいては、タンバリン、シンセサイザー、ギターなども曲によっては演奏した。 スタジオではこのほかにハープシコード、マラカスなどにクレジットされているが、個々の詳細については各アルバムのクレジット参照。
フレディの声域

ハード・ロック調の楽曲から、オペラのような楽曲などさまざまな曲調を歌い上げること、正確な音程、幅広い声域(4オクターヴとされている)、ライヴでのパフォーマンスなどから、世界最高のヴォーカリストの一人と評される。一方で、初期にはスタジオでの完璧とも言われる歌唱と対比して、ライヴでのフェイクを交えた歌唱とのギャップがあった。中期に入り、ボーカルレッスンによる、声帯に負担をかけにくくしつつもパワフルな歌唱に移行することでヴォーカリストとしての評価は確固たるものになっていった。コンサートのオープニングで、歌唱以外での観客への呼びかけをすることにより、その日の喉の調子を推し量っている様子も見受けられ、比較的前半に演奏されることが多かった「愛にすべてを」のイントロでは、ピアノのアドリブを交えつつ、どの音域までスムーズに出せるかどうかといった試みもおこなっていたようである。
フランクフルト公演のフレディ・マーキュリー(1984年撮影)

また、ロカビリー、プログレッシブ・ロック、ヘヴィメタル、ゴスペル、ディスコなど広いジャンルで作曲し、1980年リリースの『ザ・ゲーム』まではクイーンの代表曲の多くを作曲した。前述の「ボヘミアン・ラプソディ」だけでなく、「キラー・クイーン」「愛にすべてを」「伝説のチャンピオン」「バイシクル・レース」「愛という名の欲望」などは、クイーンの楽曲の作曲者クレジットが個人名義の時期の、フレディの代表的な作品である。作曲のほとんどはピアノを用いている。 その後の個人名義での作曲は、過去の焼き直し的な曲もあり、曲数もほかのメンバーとの比率の面で初期と比較して少なくなっていった。

個人名義でのソロアルバムは実質的に1枚しか発表されておらず、後述の『Mr.バッド・ガイ』(1985年リリース)のみである。発売時の日本ではクイーンの人気は1970年代ほどではなく、シングル「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」がノエビア化粧品のCMに使われたものの、全盛期のクイーンのアルバムほどの売り上げではなかった。またCBSからのリリースであったせいか(クイーンは EMI)、死後もしばらくは廃盤になっていた(現在、『Mr.バッド・ガイ』単体はソニーの運営するダウンロードサイトmoraで全曲一括購入が可能)。

他にオペラ歌手のモンセラート・カバリェとコラボーレートして、アルバム『バルセロナ』を発表している。 (1992年のバルセロナオリンピック開会式に、モンセラート・カバリエとこの曲で共演する予定であったが、フレディー本人の死去により、実現されなかった。)

その後、レーベルの垣根を越えた形で、シングル、未発表音源、リミックスなどを集めた編集アルバムなどがリリースされているが、唯一のオリジナル・ソロ・アルバムは現在でも単体では手に入りにくい。

非公式ではあるが、ジャクソンズとミック・ジャガーのヒット曲「ステイト・オブ・ショック」はフレディが歌ったバージョンも録音されている。また同時期に行ったセッションのなかにはソロアルバム『Mr.バッド・ガイ』に収録された「There Must Be More To Life Than This/生命の証」をマイケル・ジャクソンと共に歌うバージョンとマイケル・ジャクソンがソロで歌うヴァージョンが音源として残っている。


<デザイナーとしてのフレディ>
前述の通り、イーリング・カレッジでグラフィック・デザインを学んだフレディは、初期の自筆バイオグラフィーで以前の職業の欄にイラストレイターと書き記している。ただし、仕事としてイラストを描いていたという記録は確認できていない。

クイーンのファーストアルバムの裏ジャケットには、のちに『オペラ座の夜』の表ジャケットとして知られる、真ん中に図案化したアルファベットのQの文字を配し、一番上に白鳥、その下にブライアン・メイの誕生星座である蟹、Qの両側にはロジャー・テイラー、ジョン・ディーコンの星座である獅子を配し、自身の乙女座から妖精も加えたロゴ・マークをデザインした。 その後、このロゴ・マークは同じデザインで三枚のアルバムまで裏ジャケットに描かれ、『オペラ座の夜』、『華麗なるレース』では若干デザインを変更した形でジャケットを飾っている。次作『世界に捧ぐ』ではレコード盤の真ん中のレーベルのスペースに描かれた。これらのデザイン変更においてフレディ自身がその都度描き起こしたかどうかは定かではない。

アルバムジャケットのコンセプトという観点では、単独でクレジットされているものに『ホット・スペース』のジャケットがある。しかしながら『世界に捧ぐ』のジャケットのようにロジャーがイラストを見つけてきたというようなエピソードが残っている事例を除けば、グループの一員としてフレディの意見が反映されていることは想像に難くない。


戦慄の王女 - Queen


戦慄の王女 - Queen
イギリスのロックバンド『クイーン』のデビューアルバム。1972年にはすでに録音が済んでいたが、契約上の問題でリリースが延びたともいわれている。

当時としては音の加工(エフェクト)が多く曲構成も複雑で、当時のイギリスのメディアからは非難され、先行シングル「炎のロックン・ロール」共々、発表当初はチャート入りを逃したが、アルバムは『クイーン II』発表後にチャート入りした。しかしながら当時からアメリカや日本での評価は比較的高く、ギターオーケストレーション、重厚なコーラス、クラシック音楽を基調としたハードロック、ピアノをフィーチャーした曲、ドラマチックな曲展開など、クイーンとしての音楽的要素はすでに備わっている。

ジョン・ディーコンの名前がディーコン・ジョンになっているが、これはクレジットミスではなく、メンバーの意図により逆にしてある(そのほうが響きがいいという理由)。が、2枚目のアルバム(次作)『クイーン II』ではジョン・ディーコンに戻っている。

日本でのタイトルは『戦慄の王女』だが、QUEENの訳は「女王」である。これについては当時のレコード会社の担当者が「雰囲気で『女王』の使用を避けた」ためと語っている。

<曲名>
1. 炎のロックン・ロール - Keep Yourself Alive - 3:47 *
* 作詞・作曲:ブライアン・メイ
2. ドゥーイング・オール・ライト - Doing All Right - 4:09
* 作詞・作曲:ブライアン・メイ、ティム・スタッフェル
3. グレイト・キング・ラット - Great King Rat - 5:42
* 作詞・作曲:フレディ・マーキュリー
4. マイ・フェアリー・キング - My Fairy King - 4:07
* 作詞・作曲:フレディ・マーキュリー
5. ライアー - Liar - 6:26
* 作詞・作曲:フレディ・マーキュリー
6. ザ・ナイト・カムズ・ダウン - The Night Comes Down - 4:23
* 作詞・作曲:ブライアン・メイ
7. モダン・タイムス・ロックン・ロール - Modern Times Rock'n'Roll - 1:28
* 作詞・作曲:ロジャー・テイラー
8. サン・アンド・ドーター - Son And Daughter - 3:20
* 作詞・作曲:ブライアン・メイ
9. ジーザス - Jesus - 3:44
* 作詞・作曲:フレディ・マーキュリー
10. 輝ける7つの海(インストゥルメンタル) - Seven Seas Of Rhye - 1:20
* 作曲:フレディ・マーキュリー


レコードデビューまでの経緯



レコードデビューまでの経緯
ブライアンとロジャーの在籍していたバンド「スマイル」がクイーンの母体となった。スマイルは、1969年9月にシングル「Earth」(B面は「Step On Me」)をリリース。これはまったく成功せず、ヴォーカル兼ベースのティム・スタッフェルが脱退。その後任として、フレディが加入。1970年7月12日のライヴよりクイーンと名乗り始める。何人かのベーシストが加入と脱退を繰り返し、最終的に(メンバーの紹介だったが)オーディションの形で加入したのが、ジョン・ディーコンであった。1971年2月のことである。

スマイルはこの当時はリリースに至らなかったものの数曲をレコーディングし、1980年代中ごろには、これらの楽曲を集めた形でLP(アルバム)として日本でのみ再発売された。スマイル時代に既に、3部のコーラス、リードヴォーカルを分担する方式、エレキギターとアコースティックギターを使い分ける「静と動」といった曲の構成、ドラムのスタイルなど、ピアノサウンド以外ほとんどが確立されていた。

一方学生時代インドでの寄宿舎生活の長かったフレディは、いくつかのアマチュアバンドでヴォーカルを経験。クイーンのファースト・アルバムを制作している間に、「ラリー・ルレックス」名義でシングルレコードをリリース。バック演奏にはクイーンのブライアンとロジャーも担当。
サウンドの特徴 [編集]

エレキギターをダビングすることによって作られる「ギターオーケストレーション」と、フレディ、ブライアン、ロジャーの3人のメンバーが声のパートを重ねることによって作られる、重厚な「オペラ風コーラス」が、特に初期に目立ったサウンド上の特徴といわれている。

そのギターオーケストレーションを生み出す源、ブライアンのハンドメイドギター、「レッド・スペシャル」は、友人の家の暖炉の素材として当時100年以上使われていた木材から作られたといわれ、各ピックアップに対し独立したオンオフスイッチ、極性を入れ替えるフェイズスイッチ等、今までにないギターの音を作ることに成功した。重量を軽量化し、フィードバック奏法を容易くするための空洞も内部にあるが(ボディに空洞を作るとそこで共鳴する)、これ自体も、独自のサウンド作りに貢献している(このギターや彼の奏法の説明だけで、優に1冊の本が書ける分量になってしまい、実際にそうした書物も出版されているので詳細は割愛する)。

シンセサイザーを用いずにギターオーケストレーションで重厚なサウンドを生み出していることを明示するため、初期のレコードには「ノー・シンセサイザー」というクレジットがなされている。

クイーンのコーラスの録音方法については、「リードヴォーカルと重複するパートは、他のメンバーがバッキングヴォーカルをとり、リードヴォーカルがダブルトラックになったり、コーラスに埋もれてしまうのを防ぐ」、「スタジオ専用のサウンドエフェクターを駆使して音を厚くし、「ハーモナイザー」(エフェクターの項参照)で倍音を加える」などといった、現在常識となっているいくつかの手法以外は、不明な点も多い。「最上パートはロジャーが担当することが多い」といった明確な部分は別として、特にオペラ風コーラスに際しては「1パートにつき3人で2〜3回ずつ重ねている」というある専門家の意見もある[1]。が、正確にはメンバーとレコーディング担当スタッフしかわからない、企業秘密的な扱いとなっている[2]。

また、メンバー全員が作曲ができ、作風もそれぞれ異なっているため、ヴァリエーションの多様さが強みとなっている。